「怒り」をすがすがしく「受け流してやる」方法 曽祖母のおまじない
2022,12,04. 成道会供養
お釈迦さまは、「智慧ある者に怒りなし。万一吹く風荒くとも、心の中に波たたず。」とお説きになったがその心を保つおまじないがある。
お釈迦さまの説かれている「怒り」
◆ある時、お釈迦さまに向かって、散々「ののしった」男がいた。
◆お釈迦さまは黙って聞いておられた。→ ここが今日のポイント
◆しかし、男の悪口が終わると口を開かれた。
お釈迦さま:「お前は、祝日に、家族や親戚の人達を、招待し歓待することがあるか」
男:「そりゃ、あるさ」
お釈迦さま:「親戚がその時、お前の出した食べ物を食べなかったらどうするか」
男:「食べなければ残るだけさ」
お釈迦さま:「私の前で悪口雑言ののしっても、私がそれを受けとらなければ、その罵詈雑言(ばりぞうごん)は誰のものになるのか」
男:「いや、いくら受けとらなくとも、与えた以上は与えたのだ」
お釈迦さま:「それは与えたとは言えない」
「罵詈雑言」は誰のもの ? 言い返したら終わりだ
◆お釈迦さまに向かって吐かれた「罵詈雑言」は、自分自身に向かって吐かれた「罵詈雑言」なのだということを、「男」にお説きになる。しかし、「男」は、「お釈迦さま」に向かって「与えたもの」(一度口に出したもの)だから、その「罵詈雑言」はお釈迦さまのものだと納得しない。
◆お釈迦さまは、「罵詈雑言」受け取っていないから、与えられてはいないというのだが、「男」には理解できない。もしも、私の立場でも「すんなりと」は理解できない。そこで、男は問う。
男:「それなら、どういうのを受けとったといい、どういうのを受けとらないというのか」
→この問いが肝心
お釈迦さま:「悪口を言われたときに悪口を言い返し、怒りには怒りで報い、打てば打ち返す。闘いを挑めば闘い返す。それらは与えたものを受けとったというのだ。しかし、その反対に、なんとも思わないものは、与えたといっても受けとったのではないのだ」
◆これはよくわかる。経験している。以前学級崩壊が問題になっていたときの構図がこれだ。「先生と子どものいい争い。」「汚いことば・高圧的なことば」時には、先生にも涙、子どもにも涙。いいことはなにもない。そこに親からのクレーム。今の教育とは教師がマウントをとるということではない。「言い返したら終わり」である。これに気がつかないと大変なことになる。しかも、この構図はベテランで優秀な教員と、情熱溢れる若い先生、自信ある人が陥る。今までうまくいっていたものが、あれよ、あれよいう間に。夫婦喧嘩や兄弟喧嘩、親子の争いも同じだろう。
知恵あるものに怒りなし
◆まだ、理解できない男は更にお釈迦さまに問う。
男:「それじゃあなたはいくら悪口を言われても、腹は立たないのか」
お釈迦さまは厳かに、詩によって答えられた。
智慧ある者に怒りなし。
万一吹く荒くとも、心の中に波たたず。
怒りに怒りをもって報いるは、このゆえに愚か者のしわざなり
この詩を聞き、男はやっと腑に落ちた。
◆しかし、わかっていても「怒り」を受け取らないことはなかなか難しい。
「怒り」に「怒り」ではなく!!「ひ孫に残した曽祖母のおまじない」
◆「怒り」を上手に「受け流してやる」方法を修めておかねばならない。
◆その方法が、私の場合は、「深呼吸」と「曽祖母のおまじない」だ。小さい頃によく聞いた。「羯諦(ぎゃてい) 羯諦(ぎゃてい) 波羅羯諦(はらぎゃてい) 波羅僧羯諦(はらそうぎゃてい)菩提薩婆訶(ぼじそわか) 般若心経」と何かの拍子に曽祖母はまじないのように唱えていた。今になって思えば、般若心経の終わりの真言なのだ。ある時、何か悪いものを払うのだと曽祖母はいった。
◆このお経の意味は、「智慧よ、智慧よ、完全なる智慧よ、完成された完全なる智慧よ、悟りよ、幸あれ」である。
◆心をザワザワ落ち着かず不吉な時、また、誰かが暗鬼になっている時、理由がわからず何故か不安な時、唱えて心が落ち着かせよというのだ。曽祖母が嫌ったのは怒り、争い、人の悪口だ。もし悪口を言いそうになったら「羯諦 羯諦」。つまり、自分のザワザワに「羯諦 羯諦」だ。もちろん言ってしまったなら同じく「羯諦 羯諦」だ。悪いことば、悪い思いは自分の心に残してはいけないということだ。(般若心経動画)
◆曽祖母はお寺の大日様を信仰していた。その縁で孫の母が嫁いだのかもしれない。曽祖母の名前は、「戦」。戦争の戦と書いて、「そよぐ」と読む名の人だった。「オンニコニコハラタテマイゾヤソワカ」
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