「しょげたマル」の語の持つ響きがなんともなつかしい。この言葉の選択が、向田邦子さんの真骨頂である。

ネグレクトことば
Lonely toddler child standing in front of a window looking outside

輪橋山徒然話 2024-7-1. 「しょげる」

◆向田邦子さんのエッセイに、「字のない葉書」の話がある。向田さんのお父さんは、戦時中、地方に学童疎開して行く小学校一年生の娘さんに対して、自分の宛名が既に書かれたおびただしい数の葉書を持たせたという話だ。

「元気な日は丸を書いて、毎日一枚ずつポストに入れなさい。」

字がまだ書けない、小さな娘さんのことを考えての、方策である。マルだけでも、「元気なマル」、「しょげたマル」、「最後にはバツ」が来てしまう。それでも最低限生きていることが分かるのである。一番恐ろしいのは、葉書がこなくなることである。

◆1ヶ月だったら、30枚。2ヶ月だったら、60枚である。「おびただしい」数だけを考えても想像は膨らむ。一枚一枚うす暗い書斎のディスクの上、宛名を書く。

◆子育てについての考え方や父親、母親の役割については、現代とは違う。戦時中の融通の効かない、頑固な親父が書いた、自分の宛名が書かれたおびただしい数の葉書。たぶん、母親や娘が手伝ったはずはない。明治の男はこういうところは見栄っ張りで、自力でやったろう。コピーなどない時代である。姿勢を正し、一枚一枚書いたのだ。「心をこめて」。一枚一枚の自分宛の葉書には、本音を隠した、頑固父親の、「ここぞ」という時の不器用な愛情表現が見え隠れする。

◆私は、「しょげたマル」の語の持つ響きがなんともなつかしい。この言葉の選択が、向田邦子さんの真骨頂であると思う。「元気なマル」、「しょげたマル」、「最後にはバツ」が来てしまう一つ前の「マル」が「しょげたマル」だ。

◆実際「しょげた」という言葉を正直忘れていた。「メソメソ」とは違う。「ふさぐ」でも、「がっかりする」でもない。「すーと元気がなくなる」のが「しょげる」なのだ。いつも立派な丸を書きたいと願っていても、現実と理想の間の落差にしょげるのだ。

◆「しょげたマル」の葉書がポストに投函される。その丸は、父親にとって、娘の心の状態を知る唯一の手段であった。戦火の中で、娘が無事であること、そしてその心の変化や成長を、父親は一枚一枚の葉書から読み取っていたのだろう。遠く離れた場所から送られる無言のメッセージが、どれほど父親の心を支えたことか。

◆さて、最近「絵文字」を覚えた。コピーして貼り付ける。膨大な「絵文字」を眺めていると手書きの温かみや、シンプルな心の表現が、なお一層重要になるのかもしれないと思うのは私だけか。

#心は大山
#輪橋山徒然話
#向田邦子
#しょげる
#しょげた丸
#字のない葉書

コメント