「不忘念」と「レレレのおじさん」にはどのような関係があるのだろう。

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輪橋山徒然話 12月11日

◆お釈迦さまの最後の説法(仏遺教経)に
「少(小)水の常に流れて石を穿つが如し」とある。
「穿つ」は「うがつ」と読み、普段はあまり使わない字である。意味も難しい。

◆例えば、「君は非常に穿った見方をする人だね」と言われたとする。私であれば、この場合、何か失礼なことを申し上げてしまったと恐縮し、謝りそうだが、この「穿った見方」というのは、「褒め言葉」なのだ。

◆そもそも「穿つ」というのは、穴を開ける・穴を掘る。突き刺す・貫くという意味を持つ。「物事の本質を的確に捉えた見方」をするという意味となる。「穿つ」は「君は、なかなかするどいなあ」の「するどい」という意味なのだ。

◆仏遺教経の「穿つ」は、「少(小)水の常に流れて石を穿つが如し」(たとえ僅かな水の流れでも、絶え間なく流れ続けていれば、いつしか固い石をも穿つ)の石をも貫く修行「精進」することを教える言葉だ。正しく精進するなら、「ならぬことはない」ということをお釈迦さまは最後の説法で教えている。

◆さて、何をどう精進すればいいのだろうか。

◆今朝取り上げたのは「不忘念」という言葉である。もちろん最後の説法(仏遺教経)の中にでてくる言葉だ。ところが「不忘念」と検索すると、なぜか「レレレのおじさん」がヒットする。「不忘念」と「レレレのおじさん」にはどのような関係があるのだろう。そして、「念を忘れるな」の「念」とはどのようなことを指すのだろうか。

◆実は、チューダ・パンタカ(周利槃特)というお釈迦さまのお弟子がモデルではないかと言われている。

◆このチューダは、お釈迦様のお話を聞いてもすぐに忘れてしまう。それだけでなく、自分の名前もさえ覚えられない。そこで、名前を書いた札を首から下げていたそうだ。この名札名荷という。食べすぎるともの忘れがひどくなるという「茗荷」(みょうが)「いわれ」もここからきているそうだ。

◆とうとう、チューダはお釈迦さまに暇乞いをする。「お釈迦さま、私はあまりにも愚かです。だからもうここには居られません」と。

◆すると、お釈迦さまは次のように言われた。
「チューダよ。自らを愚かだと知っている者のことをどうして愚か者と言えるだろう。自分を賢いと思い上がっている者こそ本当の愚か者ではないだろうか」
そして毎日「塵を払い、垢を除かん」と唱えながら掃除するようにと一本のほうきを渡した。

◆その時からチューダは、だだひたすらに「塵を払い、垢を除かん」と唱えながら掃除に励むこととなった。(これが「レレレのおじさん」のモデルとか。)

◆あるとき、お釈迦さまが「まだ汚れている」とチューダに言った。しかし、心をこめて掃除したところである。が、この時チューダは「塵を払い、垢を除かん」とは「心の掃除」、「煩悩」を払い、「心を磨くことであるのだ」とお悟りになられたそうだ。

◆お寺では、掃除を大事な修行としているのは、このような意味が込められているからだ。

◆チューダのようにお釈迦さまのお導きを一心に精進すること。「今」の「心」、「初心を忘れず励め」ということだ。それが、石をも貫く修行「精進」だ。少水常に流れて、石を穿つのだ。
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