輪橋山徒然話 2023-12-23「お父さんも持たないよ」
◆子どもの頃も、教員になってからも給食指導で「手で食器を持つ」のは当たり前のことだった。
◆食器を持たずに食べている子に、「手」というだけで1年生でも「あっ忘れていた」と慌てて食器を持ち直した。当たり前だった。言われた子は「しまった」と頭をかく。これが給食の風景だった。昔の家庭では、その手をピシャリとあったろう。
◆学校に勤めていた時、給食のマナーの指導は別に大変だとは思わなかったのだが、職員室で次の話を聞いて「これは」と思った。給食指導中に「手」というのをやめた。
◆同僚の女性教師が食器を持たないで食べる子どもに「食器を持たない」で食べるのは「犬食い」と注意したそうだ。あなたのそれは「犬食い」ですと。「食器は持って」と「犬食い」は同じではないが、彼女の中では同様なのだ。
◆しかし、「犬食い」と言われた子どもは次のように反撃した。「家でおとうさんもこうして食べている」と。この「家でおとうさんもこうして食べている」の持っている言葉の強さは、薄っぺらい学校のすべてのルールやマナーを覆すほどの威力がある。
◆なぜならば、子どもを注意し指導することが父親を指導することになってしまうのだ。大好きな父親のしていることを「犬」と指導するとは「否定」とか「侮辱」に簡単につながってしまう。
◆世の中にマナーが必要のない人間などいないはずなのだが、当たり前のことが子供に一番教えるのが難しくなっている。つまり、「子どもと同じ土俵にいない」のだ。
◆私は、日本の公教育の限界はこんな些細なところにあるのだと思っている。これが「私学」であれば、「気に入らなければどうぞおやめになってください」となるのだろう。
◆当たり前のことが、このようにいとも簡単に崩れていく。
◆例えば、「朝起きたらおはようございます」「帰る時にはさようなら」「嬉しければありがとう」と言うこと。「人に親切にすること」「礼儀正しいご飯の食べ方」「人の幸福を喜びそれを態度で見せる」この程度のことを教えることが最も困難なのだ。
◆その原因は社会の「過度の人権意識」だという人がいた。一言でいうと「周りの人の人権」を蔑ろにした「自分の人権」の主張だと。みんなの幸せの実現よりも「自分の幸せ」を優先する風潮だと聞いてなるほどと思った。
◆そして、「責任転嫁」。かつて山一証券が倒産(1998)した時に「「社員は悪くありません」の号泣記者会見があった。最近の謝罪会見は、全責任は自分にあるとの謝罪ではない。「過ちを認めない」上手な謝罪なのだ。「お父さんも持たないよ」と子どもが反撃をするのは当たり前だ。
コメント