輪橋山徒然話 2025-6-25 「一握りの土(ヴァン・ダイク)」
◆松山千春さんの「大空と大地の中で」に、「生きることが辛いとか 苦しいだとかいう前に」という歌詞がある。「野に育つ花ならば」と続くのだが、「生きることが辛い」そんな気持ちになったときに思い出してほしいお話がある。イギリスの詩人ヴァン・ダイクの『一握りの土』。訳は、かの村岡花子さんだ。
一握りの土 ヴァン・ダイク
川の土手に一握りの土がありました。
その土は一つの夢を持っていました。
必ず自分にはすばらしい幸福がやってくると信じていたのです。
ある日のこと、
土は陶器工場へ運ばれて行きました。
そして、想像もしなかった窮屈な型の中へはめられたり、
ぞっとするような高熱の火で焼かれたりしました。
土は、
「それらは幸福を得るための試練だ。」
そう思って厳しい試練に耐えました。
ところが、その結果土は
夢想だにしなかった植木鉢にしあげられました。
それは「粗雑きわまる、赤ちゃけた、みにくい、
何のとりえもない植木鉢」でした。
それからは、土(植木鉢)の苦難の日々が始まります。
当然のことなのですが、
この植木鉢に、かつては自分と同じだった土が入れられ、
堆肥や腐葉土がかき混ぜられ、
その中に何かが埋めこまれました。
そしてどれだけの月日が経過したでしょう。
彼はどこかの立派な応接間のピアノの上に置かれました。
彼は何の楽しみも期待も持てなかったのですが、
それにもかかわらず実に不思議な場面となったのです。
それは、この応接間を訪れる客が、
彼の方に近寄っては彼を指さして、
「きれいだ。」とか「みごと」だとか口々に誉めそやすのです。
彼は自分のみにくい姿を知っているだけに、
そのことが不思議でなりませんでした。
そこで彼はピアノにそっとたずねてみました。
ピアノは静かに植木鉢に語りかけます。
「おわかりにならないのですか。
あなたは王様がお持ちになる笏(しゃく)のような
百合の花を宿らせているじゃありませんか。
その根はあなたの中で育ったのではなかったのですか」と。
このとき、土は初めて気がついたのです。
何のとりえもない、みにくい、名もない土くれであっても、
命を宿すことができ、それを育てることができたことを、
ひそかに神に感謝せずにはおれませんでした。
◆希望や理想に燃えていた「土」の現実は、粗雑きわまる、赤ちゃけた、みにくい、何のとりえもない「植木鉢」。自らのことを「みにくい、名もない土くれ」と卑下するようになった。生きることが苦しい、つらい日々だ。
◆そんな「彼」は、実はかけがえのない命を宿しており、それを育てていたことを知らされる。「彼」の生きる意味が「百合の花を育てる」ことにあったのだ。全ての苦しみが、「命を宿す」という、誰にもできない、オンリー・ワンの人生へつながっていたということを知るのだ。
◆たとえ与えられた場所で生きることを強いられた人生であったとしても、それはつまらない人生などではない。支え、支えられ、互いに支え合って生きる我々に、「意味のない人生」などないのだということをつくづく教えてくれる。それが「一握りの土」だ。
◆そして、一つ言えるのは、実は最期の最期まで本当の人生の意味などわからないということだ。もしそうだとすれば、誰しもが大器晩成の人生を生きているともいえるのではないだろうか。しかし、現実には日々追い立てられ、思い通りになどいかないことばかりかもしれない。それでも、今日1日でよかったと思うことを一つぐらいは見つけよう。なぜならそれが続けば、大器晩成の明日を信じることもできると思うからだ。
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