いじめ指導と自己内対話
◆「美味しんぼ」のテーマ別に整理されたアラカルト版が月刊で発行されている。その7月号は鶏・鳥料理だ。活字も絵も大きく、たぶん私のようなおじいちゃん向けだ。 「美味しんぼ」
「いじめをゆるすな」by山岡士郎
◆その雑誌に、軍鶏雄の闘鶏を取り上げ、「いじめをゆるすな」というテーマの話がある。私にはスットンと落ちた話なので、ちょっと紹介したい。→掲載58巻
主人公の山岡士郎がいじめに悩む少年に語る。(▶︎は引用 ※は私見)
▶︎日本の学校でいじめがはびこるのは、日本の社会が腐っているからだ。社会が腐れば学校も腐る。戦後の50年間日本の社会は、金儲けのことだけしか考えてこなかった。学校で教えるのは、いい会社に入って、いい給料をとるために良い学校に入れということだけ。
※社会が腐ったのは原因…あくまで、ここは士郎さんのお考え。
▶︎人間にとって大事なのは、正義感、良心、自尊心なのに、その代わりに偏差値の計算だけ教えた。正義感があれば、弱い者いじめを見たらそれをやめさせようとするだろうし、第一良心があれば弱いものいじめなんかするはずがない。自尊心があれば、人をいじめることなんか恥ずかしくて出来ない。子どもたちが正義感も、良心も、自尊心も持っていないからいじめがこんなにはびこるんだ。
◆いじめっこに欠けているのは、正義感→良心→自尊心を関連付けての説明が歯切れ良く、明解だ。この大演説のあと、いじめられた子どもたちは、勇気を持って団結し、いじめっ子と対決する
教育現場での葛藤
◆教育現場では、「相手がいじめられたと少しでも思ったらいじめ」である。だから、相手がいじめられたと思っているから「お前が悪い」か、相手が嘘をついているから「相手が悪い」のどちらかになる。原因は「いじめは悪いことだ」という犯人探しからスタートするからだ。結局どこかに「悪者」をつくらないと、いつまでも終わらない難しさがある。そこに葛藤がある。そして、いじめ調査に、件数と解決した・指導中の報告をしなければならない。
(当然「してはならないこと」は「許されないと」きっちり教えなければならないが。)
寄り添う意味
◆しかし、もしも大人のあなたが「正直に話しなさい」「なぜ、そんなことをしたの」「謝りなさい」「もし相手だったらどう思うかな」のような、「質問」「命令」「要求」を、教室の先生のような立場の上の人間から、たて続けにされたとする。「悪いと思うまで」「涙を流すまで」されたとする。どうだろう。確実に、反発・反抗・諦めあるいは自己崩壊が起こると思う。いじめ事案といえども犯人探しや罰することが目的ではないということがわかる。
◆いじめ指導とは、人としての「正義はあるか」「良心に照らして」「その行為は自分に恥ずかしくないか」の3点について、自己内対話を学ばせる延長線上にあるのだと捉え直したい。
◆そのために日々その子どもの年齢に合った問いかけをし、自己内対話を鍛え、自己内対話を通して自分自身を振り返らせ、見つめさせることをもっと重視したい。大人はそこに全力で寄り添うのだ。それが子育ての核なのだ。
健やかな自立を
◆その結果「ごめんなさい」でも、「恥ずかしいことはしていない」でもいい。言葉や文章として発せられれば、その子が、確かに自分自身を見つめているということになる。それを大人は認めるのだ。正しい・正しくない・善・悪の向こう側にある「自己」との対話を評価するのだ。このような「自分の見つめ方」を教えるのが生徒指導だと思う。
◆「自分を見つめること」は、子ども自身が、自らの力で健やかな自立に導くことのできる、欠かすことのできない力でもあるのだ。
◆いつもながら、「人生」の大事な部分を「漫画」で学んでいる自分がいた。「漫画」はいい。
今日も深呼吸と合掌とオンニコニコで
◆深呼吸で「心のデトックス」。一度息を全て「大地に」吐き出します。次に胸を広げて鼻から息をたっぷり入れます。最後は「吐く息は細く長く」です。呼吸をコントロールし、呼吸に集中。自分の心にアプローチ。
◆「自分の根っこ」に感謝。ここに自分があること。お父様、お母様。あなたの隣にいる人とそのご縁。これから出会う新しいご縁。全てに合掌しましょう。
◆いつもニコニコ怒りません。「オンニコニコハラタテマイゾヤソワカ」は、自分もまわりも明るく・仲良く・イキイキと導くおまじない。「オンニコニコハラタテマイゾヤソワカ」。
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