それらの問いには黙り、何も答えない。「無記」である。「毒矢のたとえ」より

柿ブログ
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今日はお釈迦さまの貫かれた「無記という術」である。

世の中には断言できないことがある

◆「死んだらどうなるのだろう」「この世の中はいつまで続くのだろうか」「霊魂は存在するのか」。実際に経験したことならば、それが「ある」「ない」とも断言できるが、まだ死んでいない私にわからない。「あるだろうと」信じることはできるのだが…。

◆お釈迦さまも(初期の経本の中で)、「あの世があるのか、ないとか」「霊魂はあるのか、ないのか」について「あるとも、ないとも」おっしゃってはいない。キリストやマホメットは、あの世について詳しく語っているのに、である。お釈迦さまは、それらの問いには、いつも黙り、何も答えない。これが、「無記」である。

「毒矢のたとえ」

◆なぜ、何も答えず「無記」なのかを説明するのにという話がある。

毒矢のたとえ (中阿含経巻第60-221「箭喩経より」)

お釈迦様は何でも知っているはずだ。だからはっきり答えて欲しいとお釈迦さまの弟子であるマールンクヤが問い詰めたのだ。

マールンクヤは問う。

世尊よ。世尊はいつも、この世界は永遠に続くのか。宇宙には限界があるのか。霊魂と身体は同じなのか別なのか。人は死後もう魂が存在するのかというようなことを質問すると、いつも黙ってしまって、何も答えてくれない。わたくしはそれが納得いかず、不満でならない。今この問題にお答え下さらないのなら、私は還俗するつもりだ。

世尊は答える。

マールンクヤよ。ここに人がいて、毒矢に射られたとしよう。その時、人々は医者を迎えるだろう。

ところがけが人は、この毒矢をいた者は誰か。またこの弓はどんな弓なのか。矢はどういう種類の矢で、羽は何で出来て、先端はどんな形をしているのか。それが分からないうちは、矢を抜いてはならぬと言ったとしよう。

すると、どういうことになるか。その男はそれらの答えを得る間に、毒が体に廻って死んでしまうだろう。

それと同じように、もし人が私のところに来て、自分の疑問について、私から説明と答えが得られない間は、私のもとで 清浄の修業をしないと主張したら、どういうことになるか。その人は毒矢にいられた男と同様に、ついに、浄行を修する機会を得られないまま、命を終わらねばならないだろう。

お釈迦さまの「無記の智慧」と深呼吸

◆お釈迦さまは、この世において、「やるべきこと」、「なすべきこと」は他にあると説いている。そのためには決着のつかない「宇宙全体の謎」や「あの世について」について議論をしても、なんの役には立たない。だから私は答えたくない。これがお釈迦さまの「無記」だ。

◆「世界は永遠なのか、いつか無くなるのか」は、大きな疑問であり、不安の種である。その他にも、自らの力ではどうしようもないものに囚われてしまうのが人間である。そうではなく、目の前のこと、明日でも、一年後でも死んだ後でもない「今を懸命に生きよ」との教えだ。

◆これが、お釈迦さまの「無記の智慧」だ。私たちの周りには、不安の種がいたるところにまかれている。たとえば「自分だけに」邪魔をする「あの人」。「自分だけ」にどうしてこんな不運なことばかり起こる現実。「あんなにがんばったのに」「今年も不合格」。「なぜ、自分だけ」なかなか認めたくない現実もあるだろう。そんな時には、一旦無記する。とりあえず、「深呼吸」して、今の目の前のことにあたるのだ。これが「無記の智慧」だ

今日も深呼吸と合掌とオンニコニコで

◆深呼吸で「心のデトックス」。一度息を全て「大地に」吐き出します。次に胸を広げて鼻から息をたっぷり入れます。最後は「吐く息は細く長く」です。呼吸をコントロールし、呼吸に集中。自分の心にアプローチ。

◆「自分の根っこ」に感謝。ここに自分があること。お父様、お母様。あなたの隣にいる人とそのご縁。これから出会う新しいご縁。全てに合掌しましょう。

◆いつもニコニコ怒りません。「オンニコニコハラタテマイゾヤソワカ」は、自分もまわりも明るく・仲良く・イキイキと導くおまじない。「オンニコニコハラタテマイゾヤソワカ」。

 

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