雑草という名前は、少し侮辱的な感じがして好まない。昭和59年8月31日 昭和天皇

月山ブログ
Gassan in summer

橋山徒然話 2023/11/28 「雑草という草はない」

◆冬を越すにはロゼット状。それを代表する植物はたんぽぽ。地面にピッタリと葉を張り付けている。雪が積もっても春まで耐えるそんな植物だ。

◆「雑草という名前は、少し侮辱的な感じがして好まない。」(昭和59年8月31日那須御用邸宮内記者会にて 昭和天皇)植物には格別に造詣の深かった昭和天皇ならではのお言葉だと思う。天皇は「雑草という草はない」の意味について「宮内記者会」にて質問を受けられ、その理由を「侮辱的な感じがする」とお答えになったという。

◆また、別の場ではもう少し言葉を加えて、「どんな植物でもみな名前があって、それぞれ自分の好きな場所で生を営んでいる。人間の一方的な考え方で、これを雑草として決め付けてしまうのはいけない」と話されている。

◆今、改めてこの昭和天皇の「雑草という草はない」というお言葉は、警告に聞こえる。なぜなら人間の傲慢さを、ずばり言い当てていると思うからだ。傲慢さのツケが今様々な形で現れている。昭和天皇はこの傲慢さは「無知」からくるものなのであると教えている。

◆「無知」といえばソクラテス。ソクラテスの代名詞は「無知の知」。ソクラテスは、「自らが無知であることを知っていること」が重要だというのだ。「雑草という草はない」にあてはめれば、今、自分が「雑草」と一括りに見下している植物が、実際どのような花をつけ、実を成し、月下にどのように毅然と立っているのか知らない「自分」を自覚せよということなのだ。知らないということは「傲慢さ」を生み出し、決めつけ、差別を生み出す恐れがあるのだ。

◆道元禅師にもいう。「華(はな)は愛惜(あいじゃく)に散り、草は棄嫌(きげん)に生(お)う」と。「華は愛惜に散り」とは、花は人に喜んでもらいたいために咲いたわけではなく、「棄嫌に生う」だ。雑草は人に嫌がらせをするためにあるのではない。まさに、「雑草という草はない」に通じる。

◆言わんとすることは、雑草だけに当てはまることではない。「自分の傲慢さ」が「棄嫌」を生み、自分が忌み嫌う対象(雑草)が生ずると考えれば、それは自分が無知なるが故に生ずるものであると考えることができよう。

◆つまり、無知が故に「病」は「健康」を教えることに気が付かず、「別れ」は「出逢い」の妙を教えることにも気が付かないのだ。言い換えれば「マイナス」は「プラス」を生むということだ。(-2)×(-3)=6となるではないか。

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