この季節の移ろいの中に自らを置き、淡々とかつ、今を「精一杯生きよ」ということを教えているのだ。

旅ブログ

輪橋山徒然話 2023/11/18
「散り初めし わが庭もみぢ」
来る冬もまた「たのし」について考える

散り初めしわが庭もみぢ
哀へしものは静かに美しきかな                  窪田空穂

◆まるで嵐を待つ朝の寺庭だ。

◆今夜は大荒れだという。明日の夜明けの頃には様変わりしているのであろう。

◆この歌には「もののあわれ」とでもいうのか、燃えるようなあざやかな炎の色を誇らしげに、そして、散り始め、終わる一瞬の華やかさ、そして、潔さががこめられている。

◆窪田 空穂(くぼた うつぼ、1877年(明治10年)6月8日 – 1967年(昭和42年)4月12日)は、日本の歌人、国文学者だ。

◆空穂は「洞察」ということを考えさせ言葉を残している。

「私は若い頃から、地上の大部分を占めていたものは植物で、人間はその植物に寄生しているもののごとく思って来た。これは今から思うと観念的なものであった。老境に入ると、この観念はうすらいで、#美観 に代って来た。あらゆる植物が皆美しく、生きて、静かにその美を変化させており、深く、測りがたいものを蔵しているように見えて来た。」
(『木草と共に』後記より)

◆縁台に座って庭を眺めているお檀家さんがいる。何もいわない。その心情は空穂のいう「美観」だろうか。後ろ姿に深淵をのぞくような、探りがたいものを感じる。

◆きっとその歳、その年齢になって初めてわかるものなのだろう。それはより深く「無用の用」を知ることにつながるのだろう。

◆そう考えると皆美しく、生きて、静かにその美を変化させているところに、自らを重ねていくということは、最高の安住の心境なのであろう。

◆さて、空穂の歌をもう二首。

いわゆる最後の一念われにあり
死のためならず生のためなり  窪田空穂

◆そして、次の歌だ。

春の土もたげて青むものの芽よ
をさなき物の育つはたのし 窪田空穂

◆冬を越え、土を割って出てくる新芽の姿を歌っている。それぞれの生死の中に自らを観ているのだ。つまり、いつ死ぬとか、いつまで生きるとかではなく、この季節の移ろいの中に自らを置き、淡々とかつ、今を「精一杯生きよ」ということを教えているのだ。

◆そうたからこその、来る冬もまた「たのし」なのだ。

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