「絶望」があったからこそ、「幸せ」を見つけられという中村久子。「人」とは、どこまでも強く、気高い。

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「手はなくも 足はなくともみ仏の」2024/8/1

手はなくも
足はなくともみ仏の
そでにくるまる身は安きかな  中村久子

◆ケラー女史は私の側に寄り、熱い接吻をされました。そしてそっと両手で私の両肩から下へ撫でて下さる時、袖の中の短い腕先にさわられたとたん、ハッとお顔の動きが変わりました。下半身を撫でて下された時、両足が義足とお分かりになった。再び私を抱えて長い間接吻され、両目から熱い涙を、私は頬を涙にぬらして女史の左肩にうつ伏せてしまいました。

◆三重苦ヘレン・ケラーが「世界の奇跡」「私より不幸な、そして偉大な人」と讃えたその人は中村久子さんという。当時41歳、時は昭和12年のことだ。

◆明治30年岐阜県高山市に畳職人の家に生まれた中村久子さんは2歳の時に左手首、右手首、左足はひざとかかとの中間、右足はかかとから切断というハンディを負う。両手、両足を失ったのだ。その原因は「しもやけ」から「突発性脱疸(だっそ)」だ。

◆この中村久子さんは、口で糸を通し、口で字を書き、口ではさみを使うことができたという。結婚もされ、子どもも育てられた。着物を縫い、日本人形を作る。全てを口での仕事だ。

◆口で着物を縫うと一言で言うが容易いことではもちろんない。それは、想像を絶する。口で縫い、口で糸をしごいて仕上げたきものは、つばだらけになってしまう。「つばだらけにしてはいけない、ぬらさぬように」というのは悲壮なまでの念願だったという。ぬれない裁縫ができるまでには、なんと13年間の長い年月がかったそうだ。

◆中村久子さんは次のように言う。

「貧困・差別・別離」から、「労働・結婚・子育て・学び・感動」を生み出し私を救ったのは両手両足のないことからでした。両手両足のないことに感謝しています。

私を軽蔑し、私を酷使した方々でさえもいまになって思えば、私という人間をつくりあげるために力を貸してくださった方々だとそう感じているのです

◆「絶望」があったからこそ、そこから「幸せ」を見つけたというのだ。「人」とは、どこまでも強く、気高いものであることを教えてくれるではないか。

「ある ある ある」 中村久子

さわやかな
秋の朝
“タオル取ってちょうだい”
“おーい”と答える良人がある
“ハーイ”とゆう娘がおる
歯をみがく
義歯の取り外し
かおを洗う
短いけれど
指のない
まるい
つよい手が
何でもしてくれる
断端に骨のない
やわらかい腕もある
何でもしてくれる
短い手もある
ある ある ある
みんなある
さわやかな
秋の朝

◆忘れてならないのはその人の母親である。両手、両足を失った2歳の娘を、一人でも生きていけるように育てた母親を次のように述べている。

「精神一到何事不成」この文字こそは、世に稀な不具の身でありながら私をして、たとえまがりなりにも、苦難の連続にいどみつつ世の荒波と闘って今日あらしめた母の教えに心から感謝しております。

◆海より深いのが母の恩である。

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