でんでん虫のかなしみ 新美南吉
◆「ごんぎつね」の新美南吉さんの詩が絵本になっていた。こんな話である。
背中の殻には悲しみ
◆でんでん虫は、ある日突然、自分の背中の殻には悲しみが一杯つまっていたことに気付く。ショックだったのだろう。友だちを訪ねては、どうしたらいいか聞いてまわる。
◆こんな様子である。
「わたしはもう、生きてはいられません」と、お友達に言いました。
「何ですか」とお友達のでんでん虫は聞きました。
「わたしは何と言う不幸せなものでしょう。わたしの背中の殻の中には、悲しみがいっぱい詰まっているのです」と話しました。
すると、お友達のでんでん虫は言いました。
「あなたばかりではありません。わたしの背中にも悲しみはいっぱいです」。
「それじゃ仕方ない」と別のお友達の所へ行きました。
◆次々と友達を回っていくが、なんと友達の答えはいつも同じなのだ。
「あなたばかりではありません。わたしの背中にも悲しみはいっぱいです」と。
◆やがて、でんでん虫は気が付くのだ。
「悲しみは、誰でも持っているのだ。わたしばかりではないのだ。わたしは、わたしの悲しみをこらえて行かなきゃならない」と。
でんでん虫とは
◆今まで、自分の殻など覗いたことはなく、ましてや悲しみとは無縁だと思っていた「でんでん虫」とは、「自分だけは特別である」と思いこんでいる人間だ。彼らはいつも「全ての不幸は人のせいである」と考え、立ち止まることなく流されて生きている。
◆そして、彼らは、実は悲しみは平等にあることに思いもよらない。だから、自分だけは大丈夫、特別と信じきっている人間が陥るのだ。「カタツムリの殻」の虚しさに。迷いの中に。
かなしみの正体
◆さて、でんでん虫が背負う「殻」の中にいっぱい入っている「かなしみ」の正体は何だったのだろう。仏さまが教える四苦にある「生死老死」や八苦の「愛別離苦」(親愛な者との別れの苦しみ)であろうか。一つ言えることがある。この世で出会う「かなしみ」は全て、この世の道理の中にあるのだ。
◆つまり、自分だけが特別あるわけもなく、この世の中の道理に従って全てが差配されているのだ。だから、「悲しみは、誰でも持っていて、わたしばかりではないのだ」ということなのだ。それを知ることで、「わたしは、わたしの悲しみをこらえて行かなきゃならない」とでんでん虫は気が付いたのだ。
◆不思議なことに自分の殻がつかめれば、相手の殻も見える。さすれば、相手の殻にも自分の殻の中にもあるのは、「かなしみ」だけでないことも知ることができただろうと思う。
追伸
◆「でんでんむしのかなしみ」は読み聞かせのYouTubeがいくつも公開されています。
青空文庫には「原文の詩」もあります。是非。
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