「鏡」
◆私のお寺の観音さまと大日さまの前に「鏡」が置かれている。神仏習合の影響だろうか。昔からの習いであるので、そのまま同じところにずっと置かれたままにしてある。「鏡」は、御身体として祀られている神社もあるそうだから、お寺よりも神社に馴染み深い気もする。正直に言えば、このまま置いていいのだろうかという疑問さえある。 神棚映像
神社にある「鏡」の意味と教え
◆特に「神社」で鏡を大事にするその教えの一つに、「鏡=か➕が➕み」という言葉の式を使った説明がある。しっくりきたし、なるほどと思った。
◆その説明とは、まず、「か➕が➕み」の「が」を漢字の「我」に置き換える。この式は「か➕我➕み」となる。ここから「我」を取り去る。すると残るものは「か➕み」で「かみ」=「神」となる。
◆つまり、鏡にこめられた願いとは、「鏡に映る自分の我を取り去りされよ」という意味なのだ。真ん中の“我”をなくせば、そこに残るのは“神”である。「鏡」は「我を捨てよ」「我をなくせ」という教えなのだ。
我をなくせとは
◆具体的に「我」とは何を指すのだろう。「我」を使った言葉を調べてみた。
「我が強い」▶︎強情である 言い出したら聞かない
「我見」▶︎自分だけの偏った見方や狭い考え。
「我執」▶︎自分中心の考えにとらわれて、それから離れられないこと。
「我田引水」▶︎物事を、自分に都合のいいように言ったりしたりすること。
「我利」▶︎自分だけの利益
◆「我」とは、「ひとりよがり」「自分勝手の考え」「わがまま」のことだ。仏の教えで言えば「三毒にまみれ、愚かである」ということになる。つまり、鏡に映る自分の「我・三毒」を戒める教えが「鏡」の教えなのだ。だから、私のお寺の観音さまや大日さまの前の鏡は。「自分の三毒を戒める」という意味で正解なのだ。
鏡に映るのは「容姿」と「こころ」である
◆また、松原泰道老師は、「姿と心を調える-もう一人の自分の発見-」(観音経入門)というお話の中で「鏡を見るのは鏡に見られることである。仏を拝むのは、仏に拝まれることである」とお説きになっている。
◆鏡に自分の姿が映るが如く、私たちが観音さまを拝む時に、観音さまも合掌して拝み返して下さるのだと松原老師はいう。それは、「お供えをいただいてありがとう」などということではない。観音さまが拝むのは、目の前にいる「あなた」である。観音さまが「あなたのかけがえのないこころ」に問いかけ、励ましているのであると松原老師は強調する。
◆鏡をみることは、観音さまが拝まれるあなたが容姿を整え、心を調え「整調」することである。つまり、ガラスを見るのではなく、鏡に・観音さまに見られている自分の状態を見て、時には励まし、時には戒める観音さまの声を聞くことなのである。これが、松原老師の「鏡を見るのは鏡に見られることである」の意味だと思う。
汚れた鏡では
◆皆さま、汚れている鏡を使っていないだろうか。心をも映す鏡でもある。汚れた鏡では、いつになっても「仏のこころ」は映らない。せめて、鏡はいつもでも綺麗でビカビカにしておかねばならない
今日も深呼吸と合掌とオンニコニコで
◆深呼吸で「心のデトックス」。一度息を全て「大地に」吐き出します。次に胸を広げて鼻から息をたっぷり入れます。最後は「吐く息は細く長く」です。呼吸をコントロールし、呼吸に集中。自分の心にアプローチ。
◆「自分の根っこ」に感謝。ここに自分があること。お父様、お母様。あなたの隣にいる人とそのご縁。これから出会う新しいご縁。全てに合掌しましょう。
◆いつもニコニコ怒りません。「オンニコニコハラタテマイゾヤソワカ」は、自分もまわりも明るく・仲良く・イキイキと導くおまじない。「オンニコニコハラタテマイゾヤソワカ」。
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