「狂」「癡」「愚」
◆取り扱い注意の3文字が今日の主役だ。
白川静先生の「ひいき」3文字とは
◆何か新年にあたりよい言葉はないかと思って探していたら一つのコラムが目に止まった。平成14年1月3日の天声人語だ。「狂」「癡」「愚」を漢字学の大家である白川静先生が、「ひいき」にしている漢字として選んだという文章が紹介されていた。
◆筆者は、天声人語の読者に対して、新年にあたり、新たに心に刻む漢字として、書き初めにどうだろうと勧めている。その理由は、「狂」「癡」「愚」が人間の至境であるからだという。至境とは、「芸道の至境をきわめる」のように使い、到達することのできる最高の境地のことだ。
◆しかし、どうみても、はっきり言って「取り扱い注意」の3文字だ。狂人の「狂」だし、癡人の「癡(痴)」、愚人の「愚」。これらが3文字が人間の最高の境地とは、新年早々いったいどういうことであろうか。
「愚」は「大愚」
◆まず「愚」については、江戸時代の禅僧良寛さんが「大愚良寛」と呼ばれており、それはだだの愚者の意味ではないことはよく理解できる。周囲には愚かに見えても、愚かさを超え、修行する姿には、「大愚」。大きな「お悟り」があるという事だ。
◆「大賢は愚なるがごとく、甚だ高次の徳性のあるもの」という。つまり「大賢」が「愚」なのである。こう考えれば「愚」が「至境」であるとよく理解できよう。「大愚」はとても凡夫の及ぶところではないのだ。 良寛さんの紹介動画
「狂」は「風狂の徒」
◆「狂」の意味するところを白川静先生は次のように説明していた。
◆まず、「狂」は、狂うことではないという。「狂」は好むところに溺れること、憑き物がおちないことをいうそうだ。例えば「風狂の徒」といえば、風雅に徹する人という意味であり、世間の埒外(らちがい)に逸出しようとする志、枠さえも越えるという意味だ。
◆例えば俳諧の世界で「風狂の徒」といえば、かの松尾芭蕉であり、尾崎放哉である。松尾芭蕉は俳句を確立した。それでは、尾崎放哉が「風狂の徒」とはどういうことなのだろう。ちなみに尾崎放哉の代表作といえば「咳をしても一人」である。
◆尾崎放哉が究めたのは俳諧の道。その俳諧において、五・七・五の枠を壊した自由律俳句の代表的な俳人なのである。芭蕉の確立した定型の五・七・五。それをより純粋に追究し、徹底的に削ぎおとし、「自由律俳句」に昇華させたのである。枠を壊したのである。
◆晩年の尾崎放哉は、小豆島の庵寺で極貧のなか俳句を作る人生を過ごしたという。その気ままな暮らしぶりから「今一休(いっきゅう)」とも呼ばれたそうだ。この尾崎放哉にとって、一休禅師と松尾芭蕉に同じ「風狂の徒」であると呼ばれる事は最大の賛辞であろう。
「癡」は「へりくだり」の言葉
◆また、「癡」は「痴」の旧字であり、「うつつ」をぬかす意であるが「狂」ほど激しくない、控えめな「狂」とある。それなのに、この字は「痴漢」という忌まわしい語にもっぱら使われていると白川静先生は嘆く。昔は、「書痴」のように自らを誇る言葉でもあったそうだ。「書痴」とは、読書ばかりしていて、世の中のことにうとい人という意味だ。つまり、勉強家を「へりくだり」の言葉なのだ。フェチにも通じそうだ。
名誉を回復?
◆この3つの漢字は、どれも「人間の至境」にふさわしい字であることはわかった。しかしながら、この天声人語は10年前、白川静先生の文章はそれよりも更に10年前だ。つまり、二十年経っても「狂」も「痴」も「愚」もその名誉を回復していない。一度ついたレッテルはなかなか剥がれないということだ。
輪橋山徒然話について
◆輪橋(りんきょう)山はお寺の山号。輪橋はアーチ橋という意味。そこから思い浮かぶのは「虹」。空にかかるアーチの橋という意味だ。此の岸から彼の岸、この世からあの世にかかる虹の橋という意味の山号だ。そこから住職がつぶやいている「徒然話」だ
今日も深呼吸と合掌とオンニコニコで
◆深呼吸で「心のデトックス」。一度息を全て「大地に」吐き出します。次に胸を広げて鼻から息をたっぷり入れます。最後は「吐く息は細く長く」です。呼吸をコントロールし、呼吸に集中。自分の心にアプローチ。
◆「自分の根っこ」に感謝。ここに自分があること。お父様、お母様。あなたの隣にいる人とそのご縁。これから出会う新しいご縁。全てに合掌しましょう。
◆いつもニコニコ怒りません。「オンニコニコハラタテマイゾヤソワカ」は、自分もまわりも明るく・仲良く・イキイキと導くおまじない。「オンニコニコハラタテマイゾヤソワカ」といつでも清々しく保つための術「付箋写経」の輪橋山徒然話でした。
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